ハムレットがオフィーリアに言う、おそらく「生きるべきか死ぬべきか」に次ぐ有名なセリフ「尼寺へ行け」の意味が、今日の芝居で初めてわかりました! というか、少なくとも、ハムレット役の内野聖陽さんがどういう意味を込めて言っているか(もしかしたらハズレてるかもしれませんが)、理解できました!
今日は、イギリスの超有名な演出家であるジョン・ケアード氏演出による『ハムレット』を豊橋の穂の国とよはし芸術劇場PLATで観てきました。
ちょうど、19日に同じくイギリスのナショナルシアターでベネディクト・カンバーバッチがハムレットを演じた『ハムレット』の映画版を観たのと、20日PLATで行われたシェイクスピアの翻訳家松岡和子さんのレクチャーを受けていたので、ストーリーをよく理解できていたのも観る楽しみを増やしてくれました。
で、ハムレットのセリフ「尼寺へ行け」です。私には、内野さんはこのシーンの全てのセリフを、完璧に自分なりに解釈されて言っておられたように思います。私には、ここはオフィーリアに向けて、ここはお母さんのガートルードのことだな、というように、全て理解できました。
ハムレットがオフィーリアをほんとうに愛していたとすると、その理由はともかく、自分がオフィーリアと結婚できないなら、オフィーリアには尼寺へ行ってもらって、自分以外の男とはつきあわせたくない、というのが、内野さん版ハムレットのオフィーリアに対する気持ちではないかと感じました。
ほんとうはどうなんでしょうね。内野さんに聞いてみたいところです。
この公演は、東京を皮切りに始まり、その東京公演の批評が朝日新聞の夕刊に掲載されていて読みました。セリフをよく理解しないまま言っているところがある云々という批評でした。
でも、今日の公演は、どの役者さんも自分の役割をちゃんと理解されて演じられていたと感じました。
ほんとうに素晴らしい舞台でした!
私は、これがイギリス人のシェイクスピアなんだな、と思いました。ハムレットのセリフの中に、役者や芝居についての考えというか感想みたいなものを言うところがある(それは当然、シェイクスピアの考えです)のですが、内野さんの口から出てくると、ハムレットの役を借りてシェイクスピアが自分の心情を吐露している、それも私の目の前で!という印象を受けたのです。
上演史400年というイギリスのシェイクスピアを、イギリス人であるケアード氏のシェイクスピア観で、文化の全く違う異国人である日本人が見事に演じ切っていたのは、翻訳もケアードしの演出の仕方も役者さんたちの努力も、すべてが素晴らしいかったからだと思います。
どの役者さんのどこが素晴らしかったか、書き始めたら全ての役者さんについて書きたいので、涙を呑んで省略します。
あえてマイナスの面を挙げるとすれば、カンバーバッチのほうは(演出家の名前を忘れました、申し訳ありません!)なんか「おもしろかった」んですよね。
それに比べて、ケアード氏の演出はあえて言うなら「地味」だったんです。ほとんど色味のない衣装に藤原道山さんの尺八で、「渋い」と言えばそうかもしれませんが、なんか舞台上の「彩り」に欠けていたといいますか…
翻訳家の松岡さんの説明では、ちょっと強気のカンパーバッチのハムレットより、今日の内野さんのいじけ気味のハムレットのほうが、解釈としてはシェイクスピアの描いた人物像に素直らしいんですが、そうなると、登場人物も舞台美術も衣装も音楽もすべて「陰」の世界で、「陽」の要素がほとんどない。せいぜい墓掘の場面くらい(このシーンも、最高でした!)
だから、芸術性という点では素晴らしい作品だったけど、おもしろかったか?と聞かれると、うーん、カンパーバッチのほうが現代的な解釈もあって、思わず身を乗り出して観たな、という感じなんです。ケアード氏のほうは、椅子に深く腰掛けて、引き気味でじっくり観たという感じ?
まあ、こうなってくると、私の好みの問題かもしれないので、どうでもいいっちゃあ、どうでもいいことなんですけどね。
カンパーバッチとの違いで言うと(ここからは、明日以降ご覧になる方は読まないでください。ネタばれですから)、カンパーバッチ版は、最後のレアティーズとハムレットの試合の毒の打ち合わせを、ちゃんと芝居で見せているんです。そして、逃げようとするクローディアスを後ろからハムレットが刺します。
しかし、ケアード氏のほうは、その打ち合わせのシーンは省略してあり、しかもクローディアスは、自らハムレットの剣(長刀みたいな長いものにしてありましたが)に向かっていく感じで刺されるんです。
ケアード氏のクローディアスが、自分が兄を殺してまで手にいれたかったガートルードが死んだから、自らも死を選んだのか。だったら、それまでの芝居の中で、そういうシーンかセリフがあって当然だし(この芝居の中では、そのセリフはカットされていたような気がします)、クローディアスの懺悔の独白シーンには「心のない言葉は天国には届かない」というセリフがあり、これは、クローディアスの懺悔が兄殺しの罪を本心から悔いているのではないことを示しています。
そうみてくると、ケアード氏の結末のシーンは、私にはなんだか違和感があるのでした。
ちなみに、今日の私の席は、舞台上にしつらえてあった席で、これがよかった! もちろん、そこも考えて演出されていたと思いますが、普通の座席より、全然臨場感を味わえたと思います。
張り切って着物(単衣の着物というのを初めて着てみたのです)を着ていったかいがあったというものです。
これを書いていたら、電車を乗り換えなければならないことをすっかり忘れてしまっていてその駅を乗り過ごし、危く終電を逃すところでした〜ハハハ
posted by 長谷川侑紀 at 23:42|
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